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2014.02.09(日)午後2時-5時【歴史研究会2月例会】レジュメ
2014.02.09(日)午後2時-5時【歴史研究会2月例会】レジュメ 山崎康彦

テーマ:                               

①【昭和天皇の戦争犯罪N】

②【明治天皇すり替え】

③【伊藤博文の犯罪】

④【ヒットラー独裁体制】

⑤【都知事選総括】

⑥【救援ノート】

★特別上映:2012.02.11 BS11【Inside Out】でテーマ【メデアは誰のものか?】に
【ネットメデイアと主権在民を考える会】世話人代表として私が出演した時のビデオを
上映したいと思います。2年前の放送ですが今でも十分通用する内容だと思います。

会場:会場:ルノアール四谷店3FC会議室
   
①【昭和天皇の戦争犯罪】

●天皇裕仁は1931年9月18日に開始された日本軍の中国東北地方侵略の戦争(いわゆる満州事変)から、1945年9月2日連合国に対する正式幸福に調印するまでの、一連の侵略戦争を遂行し、指導した。そのことによって裕仁は、アジアの数千万人を虐殺した。すなわち彼は、「戦争犯罪人」であり、「ファシスト」であり、「5000万人のアジア人」を殺した最大最高の元凶である。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版より抜粋)

▲二 天皇制ファシズムの形成

テロル・クーデター・陰謀の続出と天皇

中国に対する新たな侵略が開始されるのと前後して、日本国内では、民間の右翼と陸海軍将校による政府体制変革の運動がおこった。
1930年10月、民間の右翼青年が、民政党の総裁で、時の首相浜口雄幸を狙撃して重傷を負わせた(浜口はそのため31年8月死亡する。これより先、浜口内閣は、30年4月、ロンドンにおける日英米仏伊の海軍軍縮会議で、海軍軍令部の猛反対を押し切って、日本全権に指令して軍縮条約に調印させた。ついで天皇にその批准を願い、同条約は批准された。このことを軍令部は、政府が天皇の軍隊党政権を犯したものとして、激しく政府を攻撃した。ふぃくぐん当局もそれに同調した。浜口を狙撃した青年は、この軍部の主張に扇動されたのである。
ロンドン条約問題は、陸海軍部が国政に介入する新しい段階を開いた。また一部の将校をして、かねてから主張していた「国家革新」を急がねばならないと決意させた。1931年3月、陸軍将校の一dなsンと民間右翼の一派が、クーデターによって軍部独裁内閣をつくろうとした陰謀が曝露された。それから半年後、柳条溝事件、中国東北地方侵略戦争が始められた。その後10月、再び3月事件と同一の人物たちによるクーデター陰謀が暴露された。
奇怪なことに、陸軍大臣も政府も、これらの陰謀将校を逮捕し裁判にかけようとはしなかった。それはちょうど、軍部が張作霖を殺した関東運参謀を逮捕もせず裁判にもかけず、
柳条溝事件を仕組んだ関東軍参謀たちを少しもとがめなかったのと、まったく同じである。国家の最上層部では、本書の前節で述べたように、天皇裕仁には、統帥権を犯し、勝手に外国領に出兵した朝鮮軍司令官・関東軍司令官と参謀総長をとがめず、かえって彼らを公然と称賛した。それであるのに、軍の内部で、戦争に火をつけた将校や、戦争を推進する軍部内閣をつくろうとした将校たちを、司令官や軍中央がどうして罰することができよう。したがって警察もまた、将校たちと共謀した民間右翼の指導者を逮捕するわけにはいかない。
32年2月には、民間右翼団体「血盟団」が、以前の民政党内閣の蔵相で金融資本家ともいうべき井上準之助を殺した。血盟団はつづいて3月、三井財閥の最高幹部団琢磨を殺した。そして同年5月15日、海軍将校をしゅとして、陸軍士官候補生も加わった一団は、政友会総裁で時の首相犬飼毅をその官邸で射殺した。民間右翼がこれに協力していた。
犬養内閣を最後として、政党の首領が内閣を組閣することはなくなった。これより第二次大戦に敗れるまで、天皇から組閣を命ぜられたものは十二人、そのうち一人(予備役陸軍大将)は陸軍の反対で組閣できなかった。ほかの十一人は組閣したが、そのうち四人は陸軍大将、四人は陸軍大将、二人は官僚出身、後の一人は歴史的に天皇家に最も近い家柄の貴族であった。日本のもともと不完全な政党内閣と議会政治は5.15事件で犬養首相とともに陸海軍によって殺されたということができる。

33年7月には、「神兵隊」と称する民間右翼団体のクーデター陰謀がばくろされ、翌34年11月には、陸軍士官候補生の陰謀が暴露された。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版より抜粋)

▲【天皇は張爆殺をとがめない】

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版67-69Pより抜粋)

二 天皇制ファシズムの形成

Ⅳ 天皇裕仁と中国侵略戦争

一 中国東北地方侵略と天皇

天皇は張爆殺をとがめない

天皇裕仁の日本国統治の歴史は、日本よる中国侵略戦争の不断の拡大の歴史である。
彼がまだ摂政であった1925年12月、中国東北地方(満州)を支配する軍閥張作霖が、部下の郭松齢の反乱によって打倒されそうになった。その当時日本は、張を日本の満州侵略の支柱としていたので、関東軍―南満州に駐留している日本軍―は、張を守るために、「中立」を装いながら実は郭軍に圧迫を加えた。さらに12月15日、日本政府は、摂政裕仁に、日本本国及び植民地朝鮮から、合計3500の兵を満州に派遣する許可を求めた。裕仁はそれを許可した。このような日本の圧力によって、郭軍は敗北させられ、張の地位は守られ、日本の南満州に対する侵略行為は一層強化された。

1926年12月、大正天皇が病死し、裕仁は天皇になった。その当時中国では、蒋介石を総司令官とする国民革命軍が、各地に割拠する軍閥を打倒し、全国を統一するための戦争を、勝利のうちに進めていた。日本政府は、この戦争によって脅かされている中国在留日本人の生命財産の安全を守るという口実で、中国側の抗議を無視して、27年5月、7月、28年4月、5月の四回にわたって、2000人ないし一個師団の兵を山東省に派遣した。最多時には合計一万五千人の兵がいた。いずれの場合も、政府の申し出により、天皇裕仁が命じたのである。

日本の出兵は、当然、中国の政府及び人民の激しい抗議を巻き起こした。満州を本拠とする軍閥張作霖は、これまで久しく日本の指示に頼り、日本の内密の指揮に従っていたが、彼でさえも、もはや日本の意のままにには行動しなくなった。そこで前にのべたように、関東軍の将校の一部は、軍の工兵を使用して、28年6月、張作霖の乗っていた列車を爆破して彼を殺した、政府と軍部は、日本国民及び氏外国に対して、日本軍人は事件に何ら関係もないと言い続けた。

この事件に関連して、首相田中儀一が天皇裕仁の信任を失い辞職したことは、前にのべた。注意すべきことは、天皇は、関東運将校が不法にも張作霖を殺したことを怒り、田中の責任を問うたのではなく、また田中が真相を対外的に隠すのを怒ったのでもなく、単にうその発表の責任が裕仁に帰する結果になるようなことを田中が内奏したのに怒ったのである。このことについて、田中辞職の後で、天皇は侍従長鈴木貫太郎につぎのように語っている。

「もし田中総理が、事件に日本軍は無関係であると対外的に発表しておいて、その後に、天皇に対して、『政治上よぎなくこのように発表しました。前回の報告と異なったこと申し上げて、申し訳ありません。それゆえ、辞職を請います』といったら、天皇は『それは(事件をまげて発表したこと)政治家としてやむをえなかっただろう』と言って(うその発表)をゆるしたであろう。ところが田中は、うその発表そのものの許可を請うた。それを許可すれば『予(天皇)は臣民に詐を言わざるを得ないことになるだろう』、だから許可しなかった」。

鈴木は天皇のこの話を、1933年6月中ごろ、新任の侍従武官長本条繁に語り、本条はそれを極秘メモに書き留めている。天皇のこの話は、彼が極めて老獪な「政治家」であることを示している。彼は彼自身が「臣民」に嘘をつくことにならなように政府が行動しさえすれば、政府が臣民及び外国を欺くこをとがめはしない、というのである。そして田中辞職後も、天皇は真相を発表し、下手人を処罰するよう政府に命令はしなかった。犯人は、警備不行き届きとの理由で、現役を退かされただけである。しかも犯人は、その後まもなく、南満州鉄道―日本が満州を侵略し支配するための軍事的経済的大動脈である南満州鉄道を経営する国策会社―の理事となり、満州侵略に積極的な役割を果たし続けた。

(転載終わり)

【関連情報】

▲張作霖爆殺の犯人と言われる河本大作とは?(Wikipedia抜粋)

河本 大作(こうもと だいさく、1883年(明治16年)1月24日 - 1955年(昭和30年)8月25日)は、昭和初期に活動した大日本帝国の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。

出自

1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に、地主の子として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件(1928年 - 昭和3年6月)を起し、停職、待命、予備役編入[1]。陸軍士官学校第15期は乃木希典の次男保典(歩兵科、日露戦争で戦死)と同期である。
張作霖爆殺事件

1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石の北伐の圧迫を受け北京から満州に帰還する途上にあった張作霖は、奉天近郊の南満州鉄道線路上で殺害された(張作霖爆殺事件)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘され満州某重大事件と呼称されていたが、その後の調査で関東軍高級参謀の河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使用して実行したと判明した。

事件当初から関東軍の関与は噂されており、奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であると考えるものも多かったと記されている。河本自身は、事件の数ヶ月前に東京の知人宛に送った手紙において、「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度はぜひやるよ。……僕は唯唯満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書き記している[2]。関東軍司令官の村岡長太郎は支那駐屯軍に張作霖を抹殺させる工作を行うよう竹下義晴中佐に内命を下していたが、河本はこれを押しとどめ自身の計画を実行した。

この事件の処理を巡って、田中首相は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇に報告したが後の報告では隠蔽を図ったため、天皇の怒りを買い、内閣の総辞職につなかった。河本は軍法会議にかけられることはなく1929年(昭和4年)4月に予備役に編入されるのみの軽い刑罰に留まり、事件はもみけされた。この処罰に対して、松井石根陸軍大将は反対し最後まで首謀者である河本の厳罰を要求し続けた。

ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフ[3]はGRUの犯行であると主張しているが、まともな歴史学者でこれを取り上げるものはいない。

(抜粋終わり)

▲【教育に関する勅語】

・(大日本帝国)憲法が実施された1890年には、「教育に関する勅語」が出された。これは1882年の「軍人勅語」と同じ性質のもので、天皇自らが直接に全国民にたいして、道徳の根本を教えたものである。まず日本の教育の根源を次のように説く。
「天皇である私の祖先は、遠い昔にこの国を創造し、深く厚く道徳をうちたてて、私の代に至っている。汝ら臣民はよく天皇に忠義をつくし、親に航行し、すべての臣民が心を一つにして、先祖代々立派な成果をあげてきた。これはわが国の精華であり、教育の源はじつにここにある」。

勅語はつづけて、親孝行その他の具体的な徳目を説くが、その結論は、「汝らら臣民は、戦争のさいは忠義の心をふるいおこし、勇敢に天皇のために戦い、それによって天地とともに窮りない天皇の栄をたすけよ」ということに帰着する。

教育勅語は国、公、私立のあらゆる学校の教育はもとより、日本人の教育・精神生活の最高規範とされた。教育勅語を批判することは法的にも絶対許されなかった。教育勅語が発布されると、キリスト教は教育勅語に反するとして、政府と通牒した国家h杉者たちが激しく攻撃し始めた。キリスト教のどの宗派の指導部も、全面的に屈服した。

近代日本国民は、親、子、孫の三代にわたって、このような原則で教育された結果、国民の心には、天皇を神の子として崇拝し、無条件に服従し、とりわけ戦争の際には天皇に忠義をつくして戦うのを最上の光栄とする思想・感情が深く植え付けられた。頃を立証する史実は無数にある。たとえば太平洋戦争末期に体当たりして、その搭乗者は必ず死ぬが、的にも打撃をあたえるであろうと期待する戦術が普遍的に行われた。

これが可能だったのは、青少年が天皇のために死ぬのを至上の光栄とする精神を植え付けられていたからである。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版11-12Pより抜粋)

▲【天皇の神的権威】

天皇は日本国民に対しては、神的な権威をもった。1868年に天皇が日本国の統治者となったときから、天皇の政府は、天皇は日本国を創造した神の子孫であり、日本国の唯一の政党の支配者であり、国民は天皇を無限に尊敬し、彼に絶対服従しなければならないという思想・信念、むしろ進行というべきものを国民に植え付けるために、ありとあらゆる手段をつくした。天皇の祖先であるとされる天照大神およびその部下の神々をその「子孫」の神々の進行を中心とする神道は、事実上国教とされた。

天皇の神的権威は、(大日本帝国)憲法第一条と第三条にも規定されている。「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」という第一条の「万世一系」とは、天皇が天照大神いらいの「万世一系」であるという意味である。この憲法制定を指導した伊藤博文は、その著書「憲法解釈」において、第一条について、天皇の統治権はこの憲法によって始めて与えられたのではなく、天照大神いらい万世一系その子孫たる天皇に固有のものであるという「事実」を、憲法が書きあらわしたものであるという。

第三条は、「天皇は申請にして犯すべからず」と規定している。これは、一般に立憲君主制では君主は責任を問われないという考え方を天皇に当てはめただけのものではなく、文字通り天皇を神聖として、国民は天皇については一言半句の批判も許されず、ひたすら畏敬恭順すべし、ということである。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版10-11Pより抜粋)

▲【天皇の戦争犯罪免訴】

極東国際軍事法廷のフランス代表の判事アンリ・ベルナールの個人意見は、天皇が起訴されなかったのは不公平であると示唆している。彼は、この法廷では被告たちの弁護に対して十分な保証が与えられなかったと考え、その理由を3カ条あげているが、その第一に、「被告を法定に引き出すことを決定する前の予備的調査が行われなかった」ことを上げ、第二に次のごとく述べている。「法廷では、すべての容疑者を公平に扱うことを許されず、検察側が出した被告のみについて判決を下すことが求められた。天皇が法定に出されなかったことは、遺憾である」。

アンリ判事は、誰と誰をひこくとするか公平な予備的調査が行われたならば、当然天皇も法廷に引き出されたであろうに、それが行われず、天皇が被告とされなかったことは不公平であり、遺憾であるとしている。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版3Pより抜粋)

▲【天皇の戦争犯罪免訴】

極東国際軍事法廷のフランス代表の判事アンリ・ベルナールの個人意見は、天皇が起訴されなかったのは不公平であると示唆している。彼は、この法廷では被告たちの弁護に対して十分な保証が与えられなかったと考え、その理由を3カ条あげているが、その第一に、「被告を法定に引き出すことを決定する前の予備的調査が行われなかった」ことを上げ、第二に次のごとく述べている。「法廷では、すべての容疑者を公平に扱うことを許されず、検察側が出した被告のみについて判決を下すことが求められた。天皇が法定に出されなかったことは、遺憾である」。

アンリ判事は、誰と誰をひこくとするか公平な予備的調査が行われたならば、当然天皇も法廷に引き出されたであろうに、それが行われず、天皇が被告とされなかったことは不公平であり、遺憾であるとしている。

(大島清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版3Pより抜粋)

②【明治天皇すり替え】

▲豹変した親王 (加治将一著「幕末維新の暗号下」135-136p)

・「他の目印は睦仁の体形じゃな。睦人は、骨細にして病弱な体質だった。『禁門の変』では、恐怖のあまり失神しておる」
あまりにも有名な話で、望月も知っている。会津、薩摩連合が長州と激突したのが、「禁門の変」だが、睦人、十一歳のときである。
睦仁は女官とばかり遊んでいた軟弱もので、生母の中山慶子さえも、ィクス絵を案じる頼りなさだった。
そこに禁門の変が起こり、大宝の大音響だ。睦仁は、ひーっち白目をむいてぶっ倒れたという。
「ところがどうだ。おやじの公明天皇が死んだ後の睦仁の変身ぶりは。左利きになるわ、大酒をくらうわ、乗馬に打ち込むわ、腕相撲は強いわで、あれよあれよというまに大男に育ち、体重も九十きろ近くになっておる。武家出身の侍従でさえ、相撲で投げ飛ばされているのじゃ。こんな公家がどこにおる。いくら小説家でも創造がつかんじゃろ」
「ええま・・・多くの文献で明治天皇の強靭さは認められます。しかし、強い天皇おちうイメージ作りのために武芸を学ばせたからだと・・・」
「さすが宮内省、世論操作はお手の物じゃな。しっかり行き届いておるわ。こうして小説家もころりと騙されておるくらいじゃからな」
嫌味をいってから続けた。
「者には限度というものがある。いくらブドウをならわせたところで、へなちょこのもやしが、怪物プロレスラーにはならん。完璧に別人なんじゃ」
店かはうずくまるようにして、紙袋から者hシンを探し出した。
そして、これがすり替え前の天皇、本物の睦仁だといった。(前ページ写真)
望月は唖然とした。
「本物・・・根拠はあるんですか」
にやりを笑ったが、凄みは壊れなかった。
「あるわけない。だが、話者信じておる」
もう一枚、望月に突き出した。
正真正銘、明治天皇の写真として世に知られたものである。
「群像写真としっかり見比べてみるんじゃ。顔の輪郭、目、鼻、口、耳ン、全部同じだ」【比較社品15】
望月も以前から気付いていたが、瓜二つである。
じっと見つめていると心が昂ってくる。
「明治天皇の写真は」
田中がしゃべった。
「二枚しかない。内田九一が撮影した二種類じゃ。天皇が写真嫌いだったというより、バレルのを恐れて避けていたんじゃよ」
奇怪な点がまだあると言った。
生母の中山慶子は、睦仁が天皇に即位してからというもの、ほとんど息子に会っていないのだという。
調べてみればすぐ判明する事実で、さして理由もないのに、息子に実母が合わないなど、慎み深いなどという領域をはるかに超えている。
さらに、明治天皇は母親は氏の床に臥しても行かず、わずか牛乳一本をとどけたに過ぎない。
死んでも、行くことはなかった。
それもこれも明治天皇が、山中恵子と赤の他人なら合点がいくと言った。

(転載終わり)

【関連情報1】:「フルベッキ群像写真」

上京前のフルベッキと致遠館の塾生(フルベッキ群像写真)(上野彦馬撮影)。この写真は昭和48年に島田高資によって、幕末の志士たちの集合写真であるという説が唱えられるようになったが、明治元年から明治二年に撮影されたと見られている。(Wikipediaより抜粋)

【関連情報2】:宣教師フルベッキが企画し実現させた岩倉使節団とは?(Wikipediaより抜粋)

岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

③【伊藤博文の犯罪】

▲ 伊藤博文とは? (Wikipediaより抜粋)

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、のち吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」など。「春畝公」と表記されることも多い。

周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老。

アジア最初の立憲体制[注釈 1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根によって暗殺された。

▲志士としての伊藤 (佐々木隆著「伊藤博文の情報戦略」中公新書 1999年初版より抜粋)

この年、江戸在住の藩士の間では攘夷決行論が高まり、高杉らは御楯組を結成して機会を窺っていた。伊藤も御楯組に加わり、12月12日深更の品川御殿場の英国公使館焼き討ちに参加している。また同月21日、伊藤は国学者塙次郎が幕府の命で公明天皇廃位のための前例調査を行っていると伝え聞き、山岸庸三とともにこれを暗殺した。塙は父・保己一の後をうけて「群書類従」の補遺の作業を行っていたのだが、これが世間に誤って伝わったのである。ちなみに歴代首相のうち、戦場以外で人をしなせたのは、初代の伊藤と二代の黒田清隆だけである。旧千円札の肖像からはなかなか想像できないが、若き日の伊藤は急進的かつ戦闘的な尊王攘夷派の志士だったのである。

▲【伊藤博文暗殺事件】

1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長で、同年6月に韓国統監を退任)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン市(哈爾浜)に赴いた。

午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根は拳銃を発砲。全7発を乱射し、その内の銃弾4発が伊藤に向けられ3発が命中。近くにいて最も多くの弾丸を受けた外交官の室田義文[12]は奇跡的に軽傷であったが、哈爾濱総領事の川上俊彦[13]が腹部に重傷、流れ弾が秘書官森泰二郎、満鉄総裁の中村是公、同理事の田中清次郎の衣類を貫通した。襲撃では何発が発砲されたか、狙撃手は1人か複数かには異説がある。

伊藤は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れ、しばらく意識があったが、約30分後に死亡した。狙撃後、安重根はロシア語で「コレヤ! ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大声で叫び、逃げもせずにその場でロシア官憲に逮捕された

▲【安重根伊藤暗殺の動機】

伊藤博文を暗殺した動機として、安重根は検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際、15の理由を挙げた[16]。しかしこの中には伊藤とは少しも関係のないものが散見され、「大韓独立主権侵奪の元凶」と伊藤を朝鮮支配の象徴として偶像化した。

一、今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。

二、今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。

三、今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。

四、伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。

五、韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。

六、条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。

七、韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。

八、韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。

九、 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。

十、 ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。

十一、韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。

十二、伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。

十三、韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。

十四、今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。

十五、伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。

④【ヒットラー独裁体制】

・1933年1月30日ヒトラー首相就任。

・内閣発足の2日後の2月1日に議会を解散し国会議員選挙日を3月5日と決定した。

・2月27日の深夜国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは共産主義者蜂起の始まりと断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。

・この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されておりさらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することでナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得出来るようになった。

・3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て「全権委任法」を可決させ議会と大統領の権力は完全に形骸化した。

・7月14日にはナチ党以外の政党を禁止

・12月1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた

・1934年6月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清

・1934年8月2日ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させさらに「指導者兼首相(Fu"hrer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した[。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspra"sident)という称号は使用せず自身のことは従来通り「Fu"hrer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日に民族投票(ドイツ語版)を行い、89.93%という支持率を得て承認された。

・これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた

・1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられ

▲社会ファシズム論 (Wikipediaより抜粋)
社会ファシズム(しゃかいファシズム、ドイツ語: Sozialfaschismus、英語: social fascism)[1]とは、社会民主主義をファシズムと同一であるとする見解による用語で、ファシズム勢力より社会民主主義勢力への敵対と打倒を優先すべきとする。その主張および運動方針は、社会ファシズム論[2]または社会民主主義主要打撃論とも言われる。

1920年代後半から1930年代前半に、ヨシフ・スターリン、コミンテルンの支持で各国の共産党が主張し、特にナチス(NSDAP)伸張期のヴァイマル共和国時代のドイツ共産党の実践によって顕著であった。しかし結果的にはNSDAPがドイツの政権を獲得し、ドイツ共産党が非合法に追い込まれたため、この方針への反省がおこなわれ、1935年のコミンテルン第7回大会によって自己批判の対象となった。

概要

社会ファシズム論とは、社会民主主義とファシズムを双子として同一視する見解である。こうした見解が生じた背景としては、ドイツ革命直後のドイツ社会民主党とドイツ共産党の路線対立や、ネップ(新経済政策)後に左傾するソ連内部において、路線対立が先鋭化していたことなどが挙げられる。1924年9月にはスターリンが「社会民主主義とファシズムは対立物ではなく、双生児である」と定式化し、1928年の第6回コミンテルン執行委員会総会は、社会ファシズム論を明示した[3]。

この路線に従ってドイツ共産党はドイツ社会民主党を敵視し、そのために議会では反社会民主党的な行動を繰り返した。ドイツ共産党の武装組織「赤色戦線戦士同盟」が社会民主党党員を襲撃したり、「ワイマール政府反対」を掲げナチスの労働者組織と共闘してストライキを行ったりした。このことは、同じく反社会民主党の姿勢を打ち出すナチスを結果的に利することになった。世界恐慌下でこうした左派政党内の対立がみられたことは、大衆の彼らへの失望とナチスへの期待を助長させた。また、ナチス政権成立の直前までドイツ共産党とドイツ社会民主党の合計議席数はナチスを上回っており、両政党が連携していればもっとファシズムに対抗する効果的な方策を打ち出すことも可能であった。

ドイツ共産党の指導者エルンスト・テールマンは「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語っていた。しかし、結果的には1933年にヒトラー政権が成立し、「ヨーロッパ最強」と言われたドイツ共産党は弾圧によって暴力的に急速に解体されることになる。ナチス・ドイツの政府は、1935年3月には再軍備を宣言した。こうした中で、1935年のコミンテルン第7回大会では人民戦線戦術が採択され、反ファシズムのために諸勢力が結集する方針が示された。これにより社会ファシズム論は否定されることになった。

反論

スターリン主義に反対していた、レフ・トロツキーは社会ファシズム論を批判し、ドイツ共産党と社会民主党は連帯してナチスに立ち向かうべきだと主張したが、ドイツ共産党からは聞き入れられなかった。この件に関する論考は、トロツキー死後の1962年と1969年に「社会ファシズム論批判」として出版された。

⑤【都知事選総括】

▲今回の都知事選では細川候補は【脱原発】【原発即時ゼロ】を最大の争点にしているが、安倍自公政権の暴走をだれが止めることができるのかが最大の争点であり【脱原発】【原発即時ゼロ】はそのうちの一つに争点に過ぎない!

一昨日(2月3日)行われた「脱原発 都知事選候補に統一を呼びかける会」の記者会見の最後の方で共同代表の鎌田慧さんが以下のような発言をしたのが気になった。

鎌田氏「先ほど、世代間の対立とか階級対立とか新自由主義とかいう質問がありましたが、それどころじゃないでしょう。原発の再稼働とか輸出とかいう話になっているので、それは失礼とかいう話ではないと思います」

鎌田さんは最大の課題は原発の再稼働や原発輸出であり世代間対立や階級間対立などを作り出した【小泉構造改革】や【アベノミックス】などの新自由主義経済政策は最大の争点ではないと主張しているが彼は完全に間違っている。

今の日本では国が決定する政策や法律や予算がすべての地方自治体に居住する住民の運命を直接左右するほど中央集権的であり、今回の都知事選での最大の争点は【貧困と大格差社会と国民弾圧と侵略戦争】へと暴走する安倍自公政権に反対しその暴走を誰が止められるかが最大の争点なのだ!

今回の都知事選では細川候補は【脱原発】【原発即時ゼロ】を最大の争点にしているが、安倍自公政権の暴走をだれが止めることができるのかが最大の争点であり【脱原発】【原発即時ゼロ】はそのうちの一つに争点に過ぎない!

▲【利権特権を拒否するフツーの市民】が今回の都知事選の争点として掲げる問題と取るべき態度は以下の通り!

①【福島原発事故放射能被ばく被災者救済】問題

・いくら金がかかろうが福島被爆被災者200万人の全面救済と集団移転を実施する!

②【福島原発事故の全面封じ込め】問題

・いくら金がかかろうが福島原発第一、第二、第三原子炉のメルトダウン・メルトスルーした核燃料計300tを完全に封じ込めこと!

③【アベノミックス】問題

・1%の大企業や金持ちをますます富ませ99%の一般庶民をますます貧しくする【アベノミックス】の即時中止!

④【秘密保護法】問題

・全ての国民を犯罪人にでっち上げて最高10年の刑務所送りが可能となる平成の治安維持法【秘密保護法】の即時廃案!

⑤【消費税税増税】問題

・国民の富を収奪する【消費税税増税】反対

⑥【TPP参加】問題

・日本のあらゆる分野を米国大資本に売り渡す売国条約【TPP】参加反対

⑦【日本国憲法改悪】問題

・安倍自公政権は【日本国憲法】を全面否定し天皇を元首にして戦前の「大日本帝国憲法」の復活をもくろんでいる。

・安倍自公政権の【日本国憲法改正】反対!【天皇制軍医独裁制度復活】反対

⑧【自衛隊の国防軍化】問題

・安倍自公政権は【日本国憲法】の反戦・平和の基本理念を否定し、【集団的自衛権行使】を容認し、自衛隊を国防軍に改編し、徴兵制と軍法会議の設置し米軍の下請けとして海外侵略戦争に自衛隊を参戦させることに目的としている。

・安倍自公政権の【自衛隊の国防軍化】反対、【自衛隊の侵略戦争】反対!

▲舛添要一候補の正体も知らずこんな人物を支持して東京都知事に投票する都民の一人一人の顔を見たい!

彼らは同じように国民を搾取し国民を貧困と弾圧と戦争に誘導する安倍晋三とファシスト一味の正体も知らずに政府と大手マスコミが宣伝する【アベノミックス】の大嘘を見抜けけず何かしてくれるのだろうと根拠のない願望とイメージで彼らを支持しているのだろう。

彼らは同じように【小泉構造改革】を唱え社会的弱者を切り捨て現在の大格差社会を作り出し米国の要請で自衛隊を初めて海外派兵し、突然【脱原発】を言いだした小泉純一郎の正体も知らずに支持しているのだろう。

彼らは同じように水俣病患者の悲痛な叫びを拒絶し「こんな冷たい知事は初めてだ」と言わせしめ、平成バブルに踊ってリゾート開発に巨額資金を投入して県財政を破たんさせた熊本県知事の責任を取らず放り出し国政に転身し、日本新党の代表として非自民非共産の連立政権首相として民意を全く反映しない「小選挙区比例代表制」の導入と国会議員一人当たり4700万円の巨額な税金を供与して国会議員のモラルを全面的に破壊した「政党助成金制度」の導入を主導し【佐川急便スキャンダル】で8か月で政権を放り投げ隠居生活に入り、20年ぶりに【脱原発】【原発即時ゼロ】を掲げて突如登場した細川元首相の正体も知らずに支持しているのだろう。

【関連記事1】

▲元側近議員が怒りの告発! 舛添氏「税金で借金返済」疑惑

2014年2月6日 日刊ゲンダイ

「公金である政党助成金が(舛添氏らの)不透明な借金返済に消えた疑いがあります」――。都知事選に立候補している舛添要一元厚労相(65)の元側近議員が怒りの“告発”だ。舛添の「政治とカネ」疑惑を日刊ゲンダイ本紙に激白したのは元参院議員の矢野哲朗氏(67)。10年に舛添が立ち上げた「新党改革」の代表代行だった。元側近が暴露した舛添の正体は、都知事の資質どころか人間性すら疑われる。

新党改革時代の舛添の不透明なカネの動きが発覚したのは1月下旬のこと。大新聞・テレビは一切報じないが、新党改革が銀行から借りた2億5000万円について、いずれも税金が原資の政党助成金や、所属議員の数に応じて支給される「立法事務費」で違法に返済したのではないか、という疑惑だ。

さらに舛添は、代表を務める複数の政治団体事務所を自宅に置き、「家賃」として妻が社長の「舛添政治経済研究所」に3年間で総額約1500万円を支払っていた。

一連の疑惑について、矢野氏はこう憤りを口にするのだ。
「すべて報じられている通りです。もとは国民の税金なのにひど過ぎる。振り返れば、反民主、非自民で国民の期待に応えようと新党立ち上げに協力しましたが、純粋な思いを大きく踏みにじられた感じがします。一体何のために新党をつくったのかという思いですよ」

矢野氏が続ける。
「そもそも新党改革は結党以来、一度も総会を開かなかった。党の活動実態もほとんどありませんでした。(代表代行として)代表の舛添氏に口頭で『党の方針を決めるべき』と何度も総会の開催を求めたのに、まったく聞く耳を持ちませんでした」

■当選しても猪瀬前知事の二の舞い

その後、党役員会の承認もないまま、党が2億5000万円もの巨額のカネを借り入れていたことや、不透明なカネの流れが判明したという。

「堪忍袋の緒が切れましたね。党の私物化ですよ。公金なのだから、きちんとした表の場で使途を明らかにしないといけないと思いました。そこで昨年2月から6月にかけ、複数回にわたって内容証明を送って党大会の開催や会計の公表を求めたのですが、舛添氏は一切応じませんでした」

いやはや、こんな男がかつて「総理に一番近い男」と呼ばれ、都知事の座に「王手」をかけているとは許せない。

「(舛添の都知事選立候補は)何を考えているのかと思いますね。仮に都知事になったら、この疑惑は都議会で必ず追及されますよ。前任者(猪瀬直樹)と同じ事態にまたなるわけです」

舛添事務所に、この問題の見解をあらためて聞いたが、何の回答もなかった。
 今からでも遅くない。都民は賢明な判断を下すべきだ。

(転載終わり)

【関連記事2】

▲「都知事の資格なし」舛添要一親族ははは介護のウソを今も許さない
(週刊文春1月30日号より抜粋)

「私の政治の原点は母親の介護です」
1月14日の都知事選出馬会見でこう言い放った舛添要一氏(65)。しかし、第一次安倍内閣の厚労相として入閣した当時、その”原点"を徹底取材した本誌は、舛添しの厚顔無恥ぶりに違和感を覚えざるを得ない。6年半ぶりに訪れた舛添氏の故郷、北九州市八幡東区で違和感はさらに膨らんだ。

本誌は、2007年9月から3会にわたって、「舛添要一、『消せない過去』」と題する記事を掲載した。舛添氏の介護体験が事実とかけはなれていたこと、四姉を養育するよう北九州市が要請したのに断っていた事実など、舛添氏の実像を浮き彫りにした。その核になる証言をしてくれたのが、11歳年上の長姉夫妻だったが、二人はすでに鬼籍に入っていた。長姉は三年前の一月にすい臓がんで、夫はその年の暮れに嘆願で亡くなっていたという。二人の娘である舛添氏の姪が語る。
「祖母のかいごのことを持ち出していましたが、事情を知る者にとっては本当に頭にきます。近所でも叔父の本当の姿を知って居る人たちは、誰も良くは言わないし、私もとても応援する気になれません。祖母簿介護問題が起こるまでは、叔父さんは規制する度にうちに寄って奥さんも何度もつれてきたこともあり、仲良くしていたのですが・・・」

舛添氏は1998年に『母に襁褓をあてるときー介護 闘いの日々』を出版、認知症が進む母・ユキノさんを介護した体験と、介護を巡って長姉夫妻と対立し、絶縁まで至った経過を赤裸々に描き、長姉のことを箇条までに罵った。

一方、長姉は六年半前の本誌に「要一が本で書いている内容は、全部反対の話だとりかいしてもらったらいい」と語った。

(抜粋終わり)



▲都知事選で【脱原発】の細川候補と【原発推進】の舛添候補は一見対立しているかのような構図だが実は対立していないのだ!細川候補は安倍自公政権が推薦する舛添候補に真っ向から対決する野党候補ではなく宇都宮候補こそが真正の野党候補なのだ!

誰が真の野党候補なのかの検証なくしてイメージだけで舛添候補の都知事当選を阻止するために野党統一候補として宇都宮候補を降ろして細川候補へ一本化せよと主張し行動する「脱原発 都知事選候補に統一を呼びかける会」の進歩派文化人たちは「オピニオンリーダー」ではなく「オピニオン・ミスリーダー」だろう!

まず最初に細川候補が熊本県知事(1983年2月11日 - 1991年2月10日)として行ったことを検証する。

1)水俣病患者の切り捨て

水俣病患者の訴えを拒絶し公害企業チッソを擁護し熊本県の行政責任を認めずあくまでも裁判で争うと冷たく言い放った。水俣病問題から徹底的に逃げ回り水俣病患者たちからは「あれほど冷たい知事は初めてだ」と言われた。未認定患者の救済などの問題は全く進展せず患者の苦しみが続いた。

2)第三セクター鉄道への出資拒否

旧国鉄「高森線」が第三セクター鉄道「南阿蘇鉄道」に転換した時「赤字必至の鉄道にやるカネはない」と熊本県からの出資を拒否した。そのため沿線の村や町が単独で出資せざるをえなくなった。

3)リゾート開発に多額の税金投入

土地バブル景気に便乗して熊本県のリゾート開発に熱心に取り組み阿蘇や天草のリゾート施設建設や別荘地、ゴルフ場造成に惜しみなく税金を投入した。結果は廃墟と借金の山。
→細川候補は安部自公政権が強行する「TPP参加」の先取りである【戦略特区】を推進するだろう!

4)地方政治の失敗から国政へ

それらの問題を全部放り投げて中央政界に進出し佐川急便から多額のカネを受け取り首相になった。

→細川候補の父護貞は息子の首相就任時をまったく喜ばず「あれの性格ではいずれ投げてしまいます」と言って周囲を唖然とさせた。(Wikipediaより)

次に1993年8月9日から1994年4月28日まで8か月続いた非自民・非共産連立政権の首相として行ったことを検証します。

1)小選挙区制の導入

1994年1月29日未明細川首相と自民党総裁河野洋平はトップ会談で中選挙区制を廃止して小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表制度を決定し導入した。小選挙区制度を導入したことで民意が全く国会に反映できなくなった。

→2012年12月6日の衆議院選挙では自民党と公明党は全有権者の25%しか得票を得ていないにも関わらず衆議院の2/3の議席を占めた。

→2013年年7月21日の参議院選挙では自民党と公明党は全有権者の26%しか得票しなかったにも関わらず参議院の過半数の議席を占め自公政権の暴走を許すことになった。

2)落選議員を救済するために小選挙区比例代表制を導入

小選挙区で落選した候補者が救済されるようになった。

3)政党助成金制度の導入による政治家のモラル崩壊

国会議員一人あたり4700万円の使途制限なしの税金を【政党助成金】として政党に与える制度を導入した結果日本の国会議員は世界一の高額報酬と議員特権を享受する利権特権階層となりモラルの壊滅的破壊を引き起こした。

4)政治資金の二重取りが現在まで許されている

【政党助成金】導入は企業や労働組合などの団体の献金禁止が前提だったが現在も企業団体献金がそのまま残っており政治資金の二重取りが許されている。

5)政党執行部の独裁体制が確立

【小選挙区比例代表制】と【政党助成金】導入によって政党執行部は選挙公認権と巨額政治資金を独占することが可能となりと政党代表の独裁支配が可能となった。

そして細川元首相が20年ぶりに【脱原発】というワンイシューだけで小泉元首相と共に登場した理由は何なのかを検証する!

「脱原発」「原発ゼロ」だけを掲げて20年ぶりに小泉元首相とともに突然登場した【隠居老人】細川護煕(もりひろ)元首相の都知事選参戦は、【舛添対宇都宮】のガチンコ勝負に水を差し【安倍自公ファシスト政権】の暴走と原発推進に全面対決する宇都宮候補への支持を細川候補と二分させる高等戦術であり騙されてはいけないのだ!

結論として【利権特権を拒否するフツーの市民】は細川候補と小泉元首相の【偽装脱原発】に騙されず宇都宮候補の当選に全力を注ぐべし!


⑥【救援ノート】救援連絡センター発行\500


5.任意同行を求められたら (16-17P抜粋)

職務質問の上、逮捕でもないのにパトカーに乗せられたりして、警察署に連れて行かれることがあります。これおw警察は「任意同行」と呼んでいますが、本人の意思に反して連行しながらも「任意同行」というのはふざけた話です。警職法第二条二項によれば、あくまでも「本人にたいして不利益であり、または交通の妨害になると認められる場合」とありますが、実際には警察署やは派出所に連行hして、事情を聴く形で取り調べを行う場合も多いのです。
これは本来の刑事手続きに基づかない越権行為ですから、断固として帰ることを要求しましょう。警職法第二条三項にあるとおり、この場合は逮捕では成りませんから、どんなに遅くなっても警察署に止めることはできません。法的にも拘束力はありませんから、あまりひどい場合は、救援連絡センターや弁護士に電話をかけさせるよう要求するといいでしょう。
また、何らかの「事件」の被害者として警察に院移動講師、根ほり葉ほり聴き出そうとすることがあります。このような場合は、「被害届」に名を借りた取り調べですから、絶対に応じないようにしましょう。
さらに、職務質問のためではなく、現にある事件で行われtレイル操作のため任意同行を求められることがあります。これについては警職法のような、その要件を定めた法令は存在しません。任意の協力を求める形での操作でしかありませんから拒否できます。
いずれにせよ、あくまで「任意」ですから、はっきりと拒否することが必要です。「任意同行」に応じてしまった場合でも、一切調書には応じないように注意し亜m章。証拠tpして後に取り返しのつかないことになることがあります。

(終わり)
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[2014/02/10 10:32] | 未分類 | トラックバック:(0) | コメント:(0) |
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